秩父宮妃殿下・勢津子さまの生涯——会津の誇りを胸に、86年の波瀾の生涯

皇室|秩父宮家|明治42年〜平成7年

秩父宮妃殿下勢津子さまの生涯
——会津の誇りを胸に、86年の波瀾の生涯

旧名・松平節子|1909〜1995年|会津松平家・外交官令嬢から皇室へ

「これで逆賊の汚名が晴れる」——1928年(昭和3年)の婚儀が決まったとき、会津の旧藩士たちは涙を流して喜んだといいます。秩父宮妃・勢津子さま(雍仁親王妃勢津子、1909〜1995年)は、幕末の会津藩主・松平容保の孫娘として生まれ、英国ロンドンで誕生し、外交官の父とともに世界各地で少女時代を過ごした国際的な女性でした。昭和天皇の弟宮・秩父宮雍仁親王の妃となり、二・二六事件・第二次世界大戦・夫の結核による闘病と死——86年の生涯は、昭和史と深く交錯した「波瀾のプリンセス」の物語です。

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🌸基本プロフィール

PROFILE | 雍仁親王妃勢津子(秩父宮妃殿下)

正式称号:雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひ せつこ)
旧名:松平節子(まつだいら せつこ)
お印:菊(きく)
生年月日:1909年(明治42年)9月9日(重陽の節句の日)
出生地:英国ロンドン(父・松平恒雄が駐英公使館勤務のため)
薨去:1995年(平成7年)8月25日(享年85歳)
父:松平恒雄(外交官・のち宮内大臣。旧会津藩主・松平容保の六男)
母:松平信子(鍋島直大侯爵の娘)
夫:秩父宮雍仁親王(大正天皇の第二皇子・昭和天皇の弟宮)
子女:なし(1936年に一度流産)
葬地:豊島岡墓地(雍仁親王と同じ墓所)

🌍生い立ち——会津の血とロンドン生まれ

旧会津藩主・松平容保の六男で外交官の松平恒雄の長女。母は鍋島直大(侯爵、佐賀藩11代藩主)の娘・信子。父の任地イギリスのロンドンで生まれる。

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生後数か月で帰国し、その後北京、天津、ワシントンの領事館・大使館で少女期を過ごす。1925年(大正14年)に渡米し、米国ワシントンD.C.のフレンドスクール(現シドウェル・フレンズ・スクール)で学び卒業。いわゆる帰国子女で、英語に堪能なだけでなく、外国人を前にした英語でのスピーチも得意だった。尚、同じく外交官令嬢でありご自身も外交官であった雅子さまに対しては、海軍大将山屋他人の曾孫ということもあり、非常に親近感を持っていたと言われている。雅子さまは勢津子さまのネックレスなどを受け継がれている。
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⚔️ 会津松平家——「朝敵」の汚名を背負った家系

祖父・松平容保は幕末に京都守護職として孝明天皇から厚い信頼を受けながら、戊辰戦争において「朝敵」の汚名をきせられた悲劇の藩主。会津若松城の籠城戦(1868年)では婦女子や少年兵(白虎隊)まで戦いに加わり多くの命が失われた。その後も会津の人々は「逆賊の子孫」として長く差別や偏見にさらされ続けました。勢津子さまはそのような歴史を背負いながら成長されました。

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👑御成婚——「逆賊の汚名が晴れた」

やがて節子の人柄が貞明皇后(大正天皇皇后)のお耳に入り、秩父宮妃候補となりました。貞明皇后の命を受けた樺山愛輔伯爵が松平家を説得。

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松平家は最初は固辞したものの、周囲の会津人たちの希望もあり、節子の成婚が決まりました。尚、樺山伯爵の次女正子(後の白洲正子)とは学習院での同級生で親友でした。
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🌸 「これで逆賊の汚名が晴れる」——会津人の涙

この成婚の際、会津の旧藩士たちは「これで逆賊の汚名が晴れる」と、涙を流して喜び、さまざまな思いを背負ってのご成婚だった。それは会津松平九代藩主容保公が幕末の混乱の中で孝明天皇の篤いご信頼を頂いたにも関わらず、戊辰戦争において、いわれのない朝敵の汚名を受け、さまざまな蔑視や障害のもと大変苦しんだ時代から六十年——勢津子様の秩父宮家への御輿入れは、まさに会津にとって苦難の歴史と汚名をすすぐ希望の光であった。

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📌 「平民の娘」から皇族へ——養女という苦肉の策

当時の皇室典範では、皇族の妃は皇族もしくは華族である必要があったが、節子の父・恒雄の身分は平民であった。父の族籍のままでは皇族へ嫁ぐことができなかったため、一旦叔父・松平保男(子爵、海軍少将)の養女となり、華族としての身分を得てから婚儀に臨んだ。また成婚にあたり皇太后(九条節子)に遠慮して「節子」から「勢津子」と改名した。「勢」は伊勢から、「津」は会津からとったと言われている。

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1928年(昭和3年)1月18日、天皇より勅許がおり9月28日、昭和天皇の次弟・秩父宮雍仁親王との婚儀が行われた。当時は「世紀の大恋愛」とも報道されたが、実際には自由恋愛ではありませんでした。それはご本人が著書で明かしています。

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📚新婚時代——勉強と公務

御成婚後、勢津子さまは皇室の礼法・和歌・書道など様々なことを一から学ばれました。英語・フランス語に堪能だった国際的な素養を生かし、外国要人の接遇や海外王室との交流でも活躍されました。

💡 「一生懸命」な夫への尊敬

昭和史研究家の保阪正康氏に対し、勢津子妃殿下は夫・秩父宮のことを「尊敬している」とおっしゃった。妃殿下曰く、とにかく「一生懸命」な方だったという。昭和天皇の弟宮として天皇を支え、陸軍の軍人として日本国の安泰を考え、上官として部下たちの生活と将来を考える。そうやってすべてを自分に引受け、努力するお姿を尊敬するとおっしゃっていた。

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⚔️二・二六事件と秩父宮

1936年(昭和11年)2月26日早朝、皇道派の青年将校らによるクーデター(二・二六事件)が発生。秩父宮は当時、弘前の歩兵第31連隊に在籍しており、青年将校側から「担ぎ上げ」を期待する声もありました。

1936年(昭和11年)2月26日早朝に皇道派青年将校らによって二・二六事件が発生した。26日朝に高松宮宣仁親王から連絡を受けた秩父宮は翌日の27日に上京した。秩父宮は夕方に上野駅に到着して憲兵の護衛を受け参内し、宣仁親王とともに昭和天皇に拝謁した。勢津子さまも弘前から上京し、夫の傍らで激動の日々を過ごされました。この事件が秩父宮夫妻の生涯に深い影を落とすことになります。

✈️欧州外遊——ヒトラーとの会見

1937年(昭和12年)、秩父宮ご夫妻はジョージ6世の戴冠式参列のためイギリスへ渡航されました。

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この旅でご夫妻はナチス・ドイツのヒトラー総統と会見しています。
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📌 ヒトラーとの会見——複雑な歴史的場面

ご夫妻のナチス・ドイツ訪問とヒトラーとの会見は、当時の日独関係(翌年に日独伊三国同盟を見据えた外交状況)の中で行われた公式訪問でした。この会見について、勢津子さまは後年どのようにお感じになっていたか、詳しい記録は残されていません。しかし勢津子さまの語学の素養が、国際外交の場で夫を支えたことは確かです。

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🏥結核予防会総裁として

秩父宮雍仁親王は1940年(昭和15年)頃に結核を発病し、以後は長い療養生活を送られました。勢津子さまは病を得た夫を献身的に支えながら、結核予防会の総裁として日本の結核撲滅運動を牽引されました。

🌿 「宿命の結核予防会総裁に」

昭和53年(1978年)、日英親善の功労によりエリザベス女王から勲章を贈られている。結核予防会総裁・日英協会名誉総裁など多くの公職を担われ、病床の夫が果たせなかった役割をも補われました。英語に堪能であったことが国際的な活動を大いに助けました。

🌱戦後——竹の子生活と夫の死

敗戦後の1947年(昭和22年)、華族制度が廃止され、旧皇族・旧華族は財産の大半を失いました。皇族である秩父宮ご夫妻も例外ではなく、箱根の御用邸などに疎開しながら、田畑を耕す「竹の子生活」を余儀なくされました。

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戦後は箱根で田畑を耕しながら病身の夫に寄り添った。闘病生活13年に及ぶ秩父宮の傍らに、勢津子さまは常に寄り添われました。

💔 1953年1月4日——秩父宮雍仁親王、薨去

1953年(昭和28年)1月4日、秩父宮雍仁親王が薨去された。享年50歳。長い結核との闘いの末の薨去でした。勢津子さまは43歳。それから42年間、ただ一人で秩父宮家を守り続けることになります。

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🕯️夫の薨去後の42年間

秩父宮の薨去後、勢津子さまは秩父宮家を守りながら長年にわたり公務を続けられました。結核予防会総裁・日英協会名誉総裁などの要職を務め、特に日英親善に力を尽くされました。

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📌 1978年——エリザベス女王から勲章

日英親善への長年の貢献が認められ、1978年(昭和53年)にエリザベス2世女王から勲章が贈られました。これは勢津子さまの国際的な素養と長年の外交的貢献を英国王室が高く評価したものでした。

生涯、会津人としてのアイデンティティを強く意識していたとされる。司馬遼太郎が祖父・容保を描いた小説『王城の護衛者』が雑誌に掲載されると即座に目を通し、「祖父の立場を初めて公平に書いてくれた」旨、会津松平家当主の松平保定を通じて礼の言葉を司馬に伝えている。

💐美智子さまのご成婚と勢津子さま

1959年(昭和34年)の皇太子明仁親王と正田美智子さまのご成婚をめぐる宮中の反応は複雑でした。

📌 美智子さまへの反対——入江日記の記述

香淳皇后、高松宮妃喜久子と共に、皇太子明仁親王と正田美智子の結婚については反対の立場で一致しており、「東宮様のご縁談について、平民からとは怪(け)しからんとのことで、皇后様(香淳皇后)が喜久君様(喜久子妃)と勢津君様(勢津子妃)をお呼びになってお訴えになった由」(『入江相政日記』)。また、勢津子の母で貞明皇后の御用掛を務めた松平信子(旧皇族、梨本宮妃伊都子の妹)も、両名の結婚に猛反対していた。

ただし、勢津子さまは皇室会議では皇族議員の一人として結婚に賛成している。私的な心情と公式な場での判断を分けておられたことがうかがえます。

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📚著書——『銀のボンボニエール』

晩年の勢津子さまは回想録を著し、宮中での生活・夫との思い出・昭和の歴史を後世に伝えられました。

📖 主な著書

『銀のボンボニエール』(主婦の友社、1991年)——宮中でのご成婚から長い皇族生活の思い出を綴った回想録。
『銀のボンボニエール——親王の妃として』(講談社+α文庫、1994年)——文庫版として刊行。
『思い出の昭和天皇——おそばで拝見した素顔の陛下』(光文社カッパ・ブックス、1989年12月)——共著。昭和天皇との思い出を綴る。

ボンボニエールとは宮中行事の際に下賜される金平糖入りの小さな金属製の器のこと。勢津子さまはそれを大切に保管し続け、宮中生活の記憶の象徴として書名に用いました。

🌙薨去と秩父宮家の絶家

1986年(昭和61年)

心筋梗塞を発症し、以後は車椅子での生活を送る。

1991年(平成3年)

回想録『銀のボンボニエール』を刊行。昭和の宮中生活と夫への思いを後世に伝える。

1995年(平成7年)8月25日

85歳で薨去した。豊島岡墓地の雍仁親王と同じ墓所に葬られた。秩父宮は勢津子さまの薨去により絶家となった。

1996年(平成8年)

遺言により、御殿場別邸が御殿場市へ遺贈され、整備されて2003年(平成15年)に秩父宮記念公園として開園した。また、秩父宮家の遺品の多くは、皇居内にある三の丸尚蔵館に寄贈されている。

⛩️会津に生き続ける勢津子さまの記憶

平成15年9月7日、御薬園にて顕彰碑建立除幕式が執り行われた。会津若松市の御薬園(ごやくえん)には今も勢津子さまの顕彰碑が立ち、毎年9月9日の御生誕日には「重陽祭」が開かれています。

🌸 会津と薩摩の和解——勢津子さまが果たした役割

戊辰戦争(1868年)で対立した会津と薩摩(鹿児島)の和解に、勢津子さまは生涯をかけて貢献されました。鹿児島出身の軍人・元老の子弟とも積極的に交流し、「恨みを超えた新しい日本の形」を体現されたと評されています。会津松平家奉賛会は今もその遺徳を語り継いでいます。

🌸 ✦ 秩父宮妃勢津子 1909〜1995 ✦ 🌸
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ロンドンで生まれ、世界を転々とした外交官の娘が、会津の誇りを背負って皇室へ嫁いだ——勢津子さまの生涯は、明治・大正・昭和・平成の86年を生き抜いた一人の女性の、波瀾に満ちた物語です。

夫の結核・二・二六事件・太平洋戦争・竹の子生活・夫の薨去——そのすべてを越えて、勢津子さまは「会津人としてのアイデンティティ」と「妃としての誇り」を最後まで失いませんでした。

「これで逆賊の汚名が晴れる」と涙した人々の想いを、勢津子さまは86年間、その生涯を通じて晴らし続けた——会津の人々にとって、勢津子さまはそういう存在であり続けています。

■ 出典・参考文献

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