秋篠宮殿下(以下「秋篠宮さま」)は1965年(昭和40年)11月30日午前0時22分、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第二子(次男)として宮内庁病院で誕生しました。
幼少時の御称号は礼宮(あやのみや)。「論語」より「博く文を学び、これを約するに礼をもってすれば、またもって畔(そむ)かざるべし」が由来です。
御称号の礼宮から「アーヤ」と呼ばれ、次男であったことからかなり自由に育てられました。
幼少時はやんちゃなイメージとして国民にも知られていました。
テニス等のスポーツに熱心に取り組む一方、地理などにも関心を持っていたそうです。

1984年(昭和59年)、学習院大学法学部政治学科に入学。翌年には自然文化研究会を結成し、積極的にサークル活動を行いました。
学生時代は随分と自由奔放で女性との噂も数多くありました。
しかし一学年下の川嶋紀子さんと知り合いサークル活動を通じ交際を深めます。
川嶋紀子さんとテニスを楽しまれることも多かったようです。

泊りがけの合宿や、スナックでの飲み会など当時でもよく週刊誌の話題になり、国民の間でもふたりの交際は有名でした。
川嶋紀子さんは御所でのテニスなどにも度々招かれ、メディアでも話題になります。

「キコちゃんと結婚できないなら皇籍を離脱する」と言って世間を騒がせたのはこの頃です。
1986年(昭和61年)6月26日に秋篠宮さまはふたりで信号待ちをしている時に川嶋紀子さんにプロポーズします。

同年から財団法人山階鳥類研究所総裁を努めます。

学生時代から「口髭」を伸ばしはじめ、それが今でもトレードマークになっているが、伸ばし始めた当初は宮内庁から顰蹙を買っていたことが侍従の日記に残されています。
1988年(昭和63年)、学習院大学法学部政治学科を卒業。同年より社団法人日本動物園水族館協会総裁を務めるとともに、2年間、オックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジ大学院動物学科に留学し魚類に関する分類学を学びます。

1989年(昭和64年)1月7日、祖父・昭和天皇が崩御、父が第125代天皇に即位したことに伴い、兄・皇太子徳仁親王に次いで、皇位継承順位第2位となります。
同年から1年間オックスフォード大学大学博物館及びロンドン自然史博物館に在籍することとなります。
同年(平成元年)8月26日、川嶋紀子さんとの結婚内定が報道されます。

ご実家が学習院の職員住宅であることから「3LDKのプリンセス」と呼ばれました。
9月12日、文仁親王と川嶋紀子の婚姻に関する皇室会議が開催され婚約が内定します。午後から記者会見が行われました。
昭和天皇の喪中における婚約内定会見でした。
皇族全員の昭和天皇の喪が明けた翌1990年(平成2年)1月12日に納采の儀が執り行われ、前年9月12日の皇室会議で承認された2人の婚約が正式決定しました。


同年6月29日、結婚の儀が行われ、同日秋篠宮家を創設した。宮号は奈良県奈良市の地名「秋篠」に由来します。
秋篠宮殿下のダイアナ元妃への冷たいお悔やみの言葉
ダイアナ元妃の事故死は当時、世界中に衝撃を与えました。
日本でも号外が配られた程です。世界は驚きと悲しみにつつまれました。
しかし当時、秋篠宮さまの冷たい反応が世間をおどろかせます。
秋篠宮さまは次のように語ったと江森敬治著『秋篠宮さま』に記されています。
付き合いのある方とそうでない方ですと受け止めかたがまったく違います。ダイアナさんとお会いしたと申しますか同じ場所にたまたま居合わせたというのは二、三回。お葬儀などの機会です。
短いあいさつを交わしのは八六年にチャールズ皇太子とダイアナさんが来日した際に、当時の東宮御所を訪問された時ですが、お目にかかって言葉を交わしたのはこの時だけです。
チャールズ皇太子ご夫妻はもっぱら両親(現在の上皇上皇后両陛下)と話しておりましたし、私はそばでそれを聞いておりました。
妻(紀子さま)はダイアナさんと話したことはないと思います。ですから亡くなったことがテレビで流れたと聞いた時も、お気の毒だとは思いましたが、その事実を確認したということだけでした。
短いあいさつを交わしのは八六年にチャールズ皇太子とダイアナさんが来日した際に、当時の東宮御所を訪問された時ですが、お目にかかって言葉を交わしたのはこの時だけです。
チャールズ皇太子ご夫妻はもっぱら両親(現在の上皇上皇后両陛下)と話しておりましたし、私はそばでそれを聞いておりました。
妻(紀子さま)はダイアナさんと話したことはないと思います。ですから亡くなったことがテレビで流れたと聞いた時も、お気の毒だとは思いましたが、その事実を確認したということだけでした。
これは当然、英国王室の耳にも入ったことでしょう。
当時皇太子妃であった雅子さまは秋篠宮さまとは反対に心のこもったお悔やみの言葉をおくっています。

イギリスのダイアナ元皇太子妃が今年の夏,突然の事故でお亡くなりになったことは大変お痛ましいことでございました。
私も,ダイアナ妃が最後に日本にいらっしゃった折にお目にかかる機会がございましたので,この事故の知らせを伺って大変重苦しい気持ちでおりました。
そして,また,私もイギリスに2年間留学しておりましたので,イギリスには大変懐かしい良い思い出がたくさんございますので,ご葬儀の日には,そのようなロンドンやイギリス各地の風景などを重ね合わせて思い出して,悲しい気持ちがいたしました。
お若くして亡くなられたダイアナ妃のご冥福をお祈りいたしますとともに,遺されたご遺族の方々のお悲しみを思い,そして,また,遺されたお二人の王子様方がこの大きな悲しみをお乗り越えになって,そして,お健やかにご成長なさいますことをお祈りしたいと思います。
私も,ダイアナ妃が最後に日本にいらっしゃった折にお目にかかる機会がございましたので,この事故の知らせを伺って大変重苦しい気持ちでおりました。
そして,また,私もイギリスに2年間留学しておりましたので,イギリスには大変懐かしい良い思い出がたくさんございますので,ご葬儀の日には,そのようなロンドンやイギリス各地の風景などを重ね合わせて思い出して,悲しい気持ちがいたしました。
お若くして亡くなられたダイアナ妃のご冥福をお祈りいたしますとともに,遺されたご遺族の方々のお悲しみを思い,そして,また,遺されたお二人の王子様方がこの大きな悲しみをお乗り越えになって,そして,お健やかにご成長なさいますことをお祈りしたいと思います。
英国王室が何故秋篠宮殿下と紀子さまには冷たく、今上陛下と雅子さまにはまるで家族のように接するのかは、このことからもよくわかります。

愛子天皇誕生を期待した高松宮妃喜久子さまのご生涯
高松宮妃喜久子さまは、2002年1月7日発売の「婦人公論」(中央公論新社刊)1月22日号に敬宮愛子さま誕生を祝う一文を寄稿し、すこやかな成長を祈る和歌三首を披露されました。

「元気なうちにあと二遍でも三遍でも喜びの歌を詠んで差し上げたい」とする一方で「一姫二太郎」への期待が過度の心理的負担をかけてはならないとして「法律関係の責任者の間で慎重に検討して戴かなくてはならないのは、皇室典範の最初の条項をどうするかでしょう」と仰っています。

と、歴代女帝や英国女王の例を挙げていました。
眞子内親王や佳子内親王がお生まれになった時にはこういったご発言はされておらず、喜久子さまは性別にかわからず天皇の地位は「直系長子優先」とお考えだったのでは、と言われています。
喜久子さまは大正天皇の第3皇子で昭和天皇天皇の弟にあたる高松宮宣仁親王殿下の妃です。
1911年(明治44年)12月26日、誕生した喜久子さまは徳川家と皇族有栖川宮家の血を引いています。

母・實枝子は、有栖川宮威仁親王の王子女でただ一人、夭逝を免れ徳川家に嫁ぎました。
父・徳川慶久侯爵は、最後の将軍「徳川慶喜」の7男です。
1912年(明治45年)4月12日、両親に連れられ舞子別邸(兵庫県)で静養中の祖父有栖川宮威仁親王の元を訪れると、威仁親王は当時唯一の孫である喜久子を「喜久女、喜久女」と呼び可愛がったため、慰子妃の勧めで、夫妻はそのまま喜久子さまを舞子別邸に預けて帰京しました。

1913年(大正2年)6月22日、病状が重篤となった威仁親王の元に宮内大臣渡辺千秋伯爵が派遣され、大正天皇第3皇男子の宣仁親王(当時8歳)に「高松宮」の称号を与えて有栖川宮家の祭祀を継承させる内諭が伝達されました。
威仁親王は翌7月10日に薨去し、国葬が執り行われました。祖父の死をまだ理解できない喜久子さまが折り紙の鶴を折ったり、棺の中の祖父に会いたいとせがむ姿は、人々の涙を誘ったそうです。
こうして有栖川宮の祭祀を継承する宣仁親王の妃として、有栖川宮の血を受け継ぐ喜久子さまが決まりました。
喜久子さま自身も、後年、著書の中で2歳当時に結婚が決まったと語っています。
1929年(昭和4年)に女子学習院本科を卒業し、翌1930年(昭和5年)2月4日、18歳で宣仁親王と結婚されます。
同日付で、勲一等に叙され、宝冠章を授与されました。明治天皇の孫と徳川慶喜の孫の結婚とあって、「公武合体」と話題を呼びました。
その2か月後、昭和天皇の名代となった宣仁親王と共に14か月にわたり欧米を歴訪します。
実母の實枝子を結腸癌で亡くしたのを機に癌の撲滅に関わるようになります。1934年(昭和9年)には、財団法人「がん研究会」(癌研・がん研)にラジウムを寄付し、その後も癌研を支援しました。1949年(昭和24年)からは日本赤十字社の名誉副総裁に推戴されています。
1968年(昭和43年)には、高松宮妃癌研究基金の設立に関与するなど、生涯を通して癌撲滅に寄与しました。しかし、後に夫・宣仁親王を肺癌で失い、さらに晩年は自らも癌と闘うことになります。
1987年(昭和62年)2月3日、宣仁親王が薨去されます。

その6年後に発見された親王の日記は、1921年(大正10年)1月1日から1947年(昭和22年)11月にかけての、皇族および海軍の貴重な資料で、喜久子さまにより1995年(平成7年)から『高松宮日記』(中央公論社)全8巻として刊行されました。
1998年(平成10年)にはエッセイ『菊と葵のものがたり』(中央公論社)を上梓しています。

ハンセン病患者の救済運動にも関わり、1993年(平成5年)の高松宮記念ハンセン病資料館(後の国立ハンセン病資料館)の設立に尽力した。また、日仏会館の総裁として日仏交流にも尽くしたことが業績として挙げられます。

2000年(平成12年)6月16日に香淳皇后が崩御すると、喜久子妃は皇族最年長者となります。

翌2001年(平成13年)12月の敬宮愛子内親王の誕生に際しては、前述した通り、もし男児が誕生しなければ、女性の天皇の皇位継承は日本の歴史から見て不自然ではないとする趣旨の手記を雑誌『婦人公論』2002年1月22日号に寄稿しています。
2003年(平成15年)に乳癌が発見され、翌年2月にはその摘出手術を受けます。一時体調は安定し6月には退院しましたが、8月に再度入院し10月18日には人工透析のための手術を受けていました。
2004年(平成16年)11月、行く末を気に掛けていた紀宮さま(黒田清子さん)の婚約が報道された時は、非常に喜んだといわれています。
上皇陛下と美智子さまのご結婚には反対の立場ですが、お子さまがいなかったので浩宮さま、礼宮さま、紀宮さまのことはまるで孫のように可愛がり、特に紀宮さまには深い愛情を注いだそうです。
しかし、2004年(平成16年)12月18日午前4時24分、聖路加国際病院で敗血症のため薨去されます。92歳でした。
93歳の誕生日のわずか8日前で、この日は清子内親王と黒田慶樹との婚約内定発表会見が予定されており、病室でもテレビ中継が視聴できるよう準備されていましたが、喜久子さまの薨去によって会見は同年12月30日に延期されました。

葬儀は豊島岡墓地で斂葬の儀が行われたのち、落合斎場で火葬され、同墓地内の墓所に葬られました。
高松宮は後継となる子孫がいないため喜久子妃の薨去で廃絶となりました。
同宮家が祭祀を継いだ有栖川宮ともども、これで系統が完全に途絶えることとなりました。
母の實枝子から書道の有栖川流を継承し、常陸宮正仁親王妃華子さまや秋篠宮さまに自ら手ほどきをしました。
華子さまへの手ほどきは、香淳皇后が「有栖川流が途絶えるのは忍びない」と華子さまを継承者として推挙したそうです。

秋篠宮さまへの手ほどきは「かっこいい字が書きたい」という当時の礼宮さまの希望で上皇上皇后陛下から依頼されたとのことです。


「元気なうちにあと二遍でも三遍でも喜びの歌を詠んで差し上げたい」とする一方で「一姫二太郎」への期待が過度の心理的負担をかけてはならないとして「法律関係の責任者の間で慎重に検討して戴かなくてはならないのは、皇室典範の最初の条項をどうするかでしょう」と仰っています。

女性の皇族が第百二十七代の天皇さまとして御即位遊ばす場合のあり得ること、それを考えておくのは、長い日本の歴史に鑑みて決して不自然なことではないと存じます
と、歴代女帝や英国女王の例を挙げていました。
眞子内親王や佳子内親王がお生まれになった時にはこういったご発言はされておらず、喜久子さまは性別にかわからず天皇の地位は「直系長子優先」とお考えだったのでは、と言われています。
喜久子さまは大正天皇の第3皇子で昭和天皇天皇の弟にあたる高松宮宣仁親王殿下の妃です。
1911年(明治44年)12月26日、誕生した喜久子さまは徳川家と皇族有栖川宮家の血を引いています。

母・實枝子は、有栖川宮威仁親王の王子女でただ一人、夭逝を免れ徳川家に嫁ぎました。
父・徳川慶久侯爵は、最後の将軍「徳川慶喜」の7男です。
1912年(明治45年)4月12日、両親に連れられ舞子別邸(兵庫県)で静養中の祖父有栖川宮威仁親王の元を訪れると、威仁親王は当時唯一の孫である喜久子を「喜久女、喜久女」と呼び可愛がったため、慰子妃の勧めで、夫妻はそのまま喜久子さまを舞子別邸に預けて帰京しました。

1913年(大正2年)6月22日、病状が重篤となった威仁親王の元に宮内大臣渡辺千秋伯爵が派遣され、大正天皇第3皇男子の宣仁親王(当時8歳)に「高松宮」の称号を与えて有栖川宮家の祭祀を継承させる内諭が伝達されました。
威仁親王は翌7月10日に薨去し、国葬が執り行われました。祖父の死をまだ理解できない喜久子さまが折り紙の鶴を折ったり、棺の中の祖父に会いたいとせがむ姿は、人々の涙を誘ったそうです。
こうして有栖川宮の祭祀を継承する宣仁親王の妃として、有栖川宮の血を受け継ぐ喜久子さまが決まりました。
喜久子さま自身も、後年、著書の中で2歳当時に結婚が決まったと語っています。
1929年(昭和4年)に女子学習院本科を卒業し、翌1930年(昭和5年)2月4日、18歳で宣仁親王と結婚されます。
同日付で、勲一等に叙され、宝冠章を授与されました。明治天皇の孫と徳川慶喜の孫の結婚とあって、「公武合体」と話題を呼びました。
その2か月後、昭和天皇の名代となった宣仁親王と共に14か月にわたり欧米を歴訪します。
実母の實枝子を結腸癌で亡くしたのを機に癌の撲滅に関わるようになります。1934年(昭和9年)には、財団法人「がん研究会」(癌研・がん研)にラジウムを寄付し、その後も癌研を支援しました。1949年(昭和24年)からは日本赤十字社の名誉副総裁に推戴されています。
1968年(昭和43年)には、高松宮妃癌研究基金の設立に関与するなど、生涯を通して癌撲滅に寄与しました。しかし、後に夫・宣仁親王を肺癌で失い、さらに晩年は自らも癌と闘うことになります。
1987年(昭和62年)2月3日、宣仁親王が薨去されます。

その6年後に発見された親王の日記は、1921年(大正10年)1月1日から1947年(昭和22年)11月にかけての、皇族および海軍の貴重な資料で、喜久子さまにより1995年(平成7年)から『高松宮日記』(中央公論社)全8巻として刊行されました。
1998年(平成10年)にはエッセイ『菊と葵のものがたり』(中央公論社)を上梓しています。

ハンセン病患者の救済運動にも関わり、1993年(平成5年)の高松宮記念ハンセン病資料館(後の国立ハンセン病資料館)の設立に尽力した。また、日仏会館の総裁として日仏交流にも尽くしたことが業績として挙げられます。

2000年(平成12年)6月16日に香淳皇后が崩御すると、喜久子妃は皇族最年長者となります。

翌2001年(平成13年)12月の敬宮愛子内親王の誕生に際しては、前述した通り、もし男児が誕生しなければ、女性の天皇の皇位継承は日本の歴史から見て不自然ではないとする趣旨の手記を雑誌『婦人公論』2002年1月22日号に寄稿しています。
2003年(平成15年)に乳癌が発見され、翌年2月にはその摘出手術を受けます。一時体調は安定し6月には退院しましたが、8月に再度入院し10月18日には人工透析のための手術を受けていました。
2004年(平成16年)11月、行く末を気に掛けていた紀宮さま(黒田清子さん)の婚約が報道された時は、非常に喜んだといわれています。
上皇陛下と美智子さまのご結婚には反対の立場ですが、お子さまがいなかったので浩宮さま、礼宮さま、紀宮さまのことはまるで孫のように可愛がり、特に紀宮さまには深い愛情を注いだそうです。
しかし、2004年(平成16年)12月18日午前4時24分、聖路加国際病院で敗血症のため薨去されます。92歳でした。
93歳の誕生日のわずか8日前で、この日は清子内親王と黒田慶樹との婚約内定発表会見が予定されており、病室でもテレビ中継が視聴できるよう準備されていましたが、喜久子さまの薨去によって会見は同年12月30日に延期されました。

葬儀は豊島岡墓地で斂葬の儀が行われたのち、落合斎場で火葬され、同墓地内の墓所に葬られました。
高松宮は後継となる子孫がいないため喜久子妃の薨去で廃絶となりました。
同宮家が祭祀を継いだ有栖川宮ともども、これで系統が完全に途絶えることとなりました。
母の實枝子から書道の有栖川流を継承し、常陸宮正仁親王妃華子さまや秋篠宮さまに自ら手ほどきをしました。
華子さまへの手ほどきは、香淳皇后が「有栖川流が途絶えるのは忍びない」と華子さまを継承者として推挙したそうです。

秋篠宮さまへの手ほどきは「かっこいい字が書きたい」という当時の礼宮さまの希望で上皇上皇后陛下から依頼されたとのことです。

1994年、皇太子さま(当時)と雅子さまの中東4ヶ国訪問
常陸宮妃華子さま、伯爵令嬢としての品格

2024年9月30日、常陸宮正仁親王(以下「常陸宮さま」)と華子妃(以下「華子さま」)がご結婚から60年を迎えました。

一般にはダイヤモンド婚と言われますね。

常陸宮さまは昭和天皇の第二皇子で上皇陛下の唯一の弟宮ですが、目立つことなく歴代天皇家を支え続けているので若い方はご存知ない方も多いようです。
妃殿下の華子さまについてもあまり知られていないので、少しまとめてみようと思います。
華子さまは1940年(昭和15年)7月19日、東京府東京市淀橋区(現:東京都新宿区下落合)の津軽伯爵邸にて華族・津軽義孝伯爵令嬢として誕生します。
母の久子さんは毛利元雄子爵令嬢。姉に泰子さん、実枝子さん、明子さんがいます。
戦時中のため休園していた女子学習院幼稚園には入園せず、1947年(昭和22年)に新制の学習院初等科に入学。1953年(昭和28年)、学習院女子中等科に入学し、1956年(昭和31年)、同高等科に入学。1961年(昭和36年)3月、学習院女子短期大学(当時)文科英語専攻を卒業されています。

1961年(昭和35年)から正仁親王妃の選考が本格化します。皇后良子さま(当時)の「気心の知れた近間の人」という強い希望から、本人・実家に加え血縁上の問題が無いとなると、大変な難航を極めました。

皇太子妃の美智子さまが民間出身だったことから、正仁親王妃は絶対に旧皇族、旧華族からという雰囲気が強くありました。
華子さまも津軽家に男児がいなかったため婿を取るであろうと言う予測から、候補から外れていました。
しかし1963年(昭和38年)、香淳皇后や常磐会(学習院女子中・高等科の同窓会)の強い希望から旧華族の華子が強く推薦され、正仁親王の学習院研究室にて初顔合わせが行われました。
1964年(昭和39年)2月20日、伯父の徳川義寛侍従(元男爵)市谷邸でお見合いをします。父の津軽義孝氏は、徳川家の生まれですが、嫡男のなかった津軽家に養子に入っていたため、血縁としては華子さまは徳川家出身ということになります。

この一度の見合いを経て、同年2月28日に皇室会議で満場一致で婚約内定します。
2月22日に津軽家が縁談を受諾し同年4月14日に納采の儀を経て婚約が成立しました。
美智子さまと同じく華子さまもお妃教育をお受けになります。
華子さまの上品で初々しいお姿は国民の間でも大きな話題となりました。
同9月30日に結婚の儀を行い、沿道には約5万人が集まり祝福しました。同日に常陸宮家が創設され渋谷区常磐松町(現:東)に常盤松御用地内の常陸宮邸へ転居します。

ご結婚後も注目の的でした。
伯爵家のご出身でありながら飾らない自然な笑顔に当時の国民は魅了されました。

凛とした美しさの中に輝く品格をお持ちでしたが、決して皇太子妃の美智子さまより目立つことはなく、常に控えめでいらっしゃいました。
常陸宮さまとの夫婦仲も大変良く、微笑ましいお姿を見せてくださっています。
華子さまはその所作の美しさでもお若い頃から絶賛されています。
1989年(平成元年)2月24日に、内閣の主催で行われた昭和天皇の大喪の礼では、欠席した皇太后(香淳皇后)の名代を務め、席次は天皇、皇后に続き皇太子さまより上位の第3位でした。
現在は日本赤十字社名誉副総裁のほか、日本いけばな芸術協会、日本動物福祉協会、日本馬術連盟、日本・ラテンアメリカ婦人協会の名誉総裁職に就いています。
2016年8月7日、同年7月16日に両側変形性股関節症の手術のため東京都世田谷区の日産厚生会玉川病院に入院していた華子さまは同日午後、退院したと発表されました。人工関節に入れ替える手術を無事に終え、院内でリハビリを続けていました。
園遊会では杖をついてお出ましになっていらっしゃいましたね。
気品あふれる皇族、と周囲からの信頼も厚い常陸宮さまと華子さま。お元気で長生きしていただきたいですね。












































































