悠仁親王(以下「悠仁さま」)が成年を迎えられ、成年会見も無事済みました。
しかし、残念なことに秋篠宮家に対する批判の声は多くあり、紀子妃殿下(以下、「紀子さま」)が「心穏やかに過ごすことが難しい」とのご感想を吐露されるほどです。
平成の初期、、秋篠宮ご夫妻には眞子内親王(現在の小室眞子さん)と佳子内親王がお生まれになったものの、当時の皇太子ご夫妻(現在の天皇皇后両陛下)にはお子さまがお出来にならない期間が長く続きました。
当時皇太子妃だった皇后陛下(以下、「雅子さま」)は一度流産され、その時から海外公務の機会も宮内庁からストップがかかり、ご懐妊への圧力は強まります。
そんな中、当時の政府は眞子内親王の天皇即位を視野に入れ、皇室典範の改正の議論に着手します。
その頃、幸運にも皇太子ご夫妻にお子さまが誕生します。このお子さまが敬宮愛子内親王(以下「愛子さま」)でした。
異論が多くなかなか進まなかった皇室典範改正の議論は、愛子さまのご誕生を受け女性天皇を認める方向で一気に勢いを増します。当時の小泉首相も女性天皇容認を宣言します。
「日本会議」などが女性天皇に激しく反対したものの、国民の間では概ね好意的に受け止められ、女系男系の議論は据え置き、男系女性天皇は認めるという形で皇室典範の改定が現実味を帯びてきます。
皇室内部からも「愛子天皇」を望む声は強くなり、高松宮喜久子妃殿下はその思いをメディアで発信されています。
当時の皇太子殿下(現在の天皇陛下)も愛子さまの教育方針について、「将来どんな立場になるにせよ...」と、女性天皇の可能性を視野に入れた形でお話になっています。
然し、国会会期中の2006年2月、皇室典範改正議論は唐突に中断されます。
秋篠宮妃殿下紀子さまのご懐妊が報じられたからです。この時、国会中継がされている中、当時の小泉首相にメモが渡される様子がテレビに映し出されます。
驚いた様子の小泉氏の姿に、多くの国民は重大事件の発生かと思ったものです。
同年9月、紀子さまが皇室にとって41年ぶりとなる男児の悠仁さまをご出産すると、女帝容認に向けた皇室典範改正の流れは、完全に打ち切られることになりました。
改正に反対していた人々は、「神風が吹いた」と悠仁さまのご誕生を熱狂的に喜びました。
然しこの時から、男子を産むことができず皇室に馴染めなかった皇太子妃の雅子さまを批判する声が当時のメディアには溢れかえります。
何をしても批判される皇太子ご一家と、何をしても絶賛される秋篠宮ご一家、という形で芸能人が廃太子署名をする騒ぎにまで発展します。
そしてその流れは時代が令和になるまで続きます。令和になり、雅子さまの見事な復活ぶりとご立派に成長された愛子さまの姿に世論は一転、「愛子天皇待望論」が叫ばれるようになります。
一方、悠仁さまは進学問題などで批判に晒されることになります。
そんな中、悠仁さまは成年を迎えられました。
時代が令和となり、天皇ご一家のご活躍がクローズアップされればされるほど、紀子さまへの風当たりは強くなります。
「産み分けまでして」という批判も再燃します。
記者会見での意味不明な発言や、海外でのプロトコルに反したお振る舞いも不評を買う原因となります。
もともとの野心の強さや、出自、婚約記者会見なども批判の対象となりつづけます。
それらが紀子さまの表情に裏付けされ、国民の多くが露骨に嫌悪感を示すようになります。
その表情から国民は容易に「雅子さまいじめ、愛子さまいじめ」を連想し嫌悪感は更に大きくなります。
そして、かつて「渦中の女」と報じられた紀子さまに対する国民の嫌悪感はそのまま悠仁さまにスライドします。
秋篠宮家に生まれたが故に、国民から厳しさと期待と不安の入り混じった視線に晒される悠仁さま。
かつて「神風が吹いた」と言わせしめた悠仁さまがこれからどのような大学生活を送りご成長されていくのか、国民は期待と不安の入り混じった形で見守っています。

ブログ村に参加しています。↑押していただけると更新の励みになります。宜しくお願いします。