カテゴリ: 宮家と旧皇族

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2024年11月三笠宮崇仁親王妃百合子殿下が薨去されました。101歳でした。

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喪主は寛仁親王殿下の長女で孫にあたる彬子女王殿下が務めました。


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彬子女王殿下は寛仁親王と信子妃殿下の長女です。


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寛仁親王は三笠宮崇仁親王と百合子妃殿下の長男で「髭の殿下」として三笠宮家の長男としてお生まれになりました。


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三笠宮家の長男で、いずれは三笠宮家を継ぐことになるため、ご結婚後も新たな宮家は創設せず、寛仁親王家としてご家族四人でご家庭を営まれていました。


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しかし、2012年に薨去されるまでガンやアルコール依存症で苦しみ、物議を醸す発言も多いなど波乱の生涯でした。

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そんな寛仁親王は25歳の時に当時16歳だった麻生信子さんに求婚します。

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麻生信子さんは兄が元首相の麻生太郎氏、祖父は元首相の吉田茂という名門出身のご令嬢です。

明治の元勲、大久保利通の子孫になり、大久保利通の子、牧野伸顕伯爵は曽祖父にあたります。


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政治に関わる麻生家にとって、皇族との縁組はメリットよりもデメリットのほうが大きいため麻生家は寛仁親王のお申し出を固辞します。


信子さんはその後英国の、貴族の子女が多く通うRoselyn House Collegeに留学し、帰国後松濤幼稚園に英語講師として勤務します。


6年経っても諦めなかった寛仁親王は24歳になった信子さんに再度求婚します。

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信子さんもそんな押しの強さに負けたのでしょう。断り切れなくなった麻生家はこの申し出に応じます。

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こうして麻生信子さんは寛仁親王妃となります。信子妃殿下の誕生です。

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麻生財閥の令嬢として何不自由なく育った信子妃殿下ですが、ご結婚後は想像以上の苦労がまっていました。


そもそも日本を代表する大富豪の麻生家ですから、限られた皇族費で生活する一宮家に嫁ぐということは一般人が考える「玉の輿」ではありません。


麻生家よりも遥かに狭い宮家での生活になるので、3LDKの職員官舎から皇室入りした秋篠宮妃紀子さまとは違って、ご親族も逆の意味で生活の激変に心配されたことでしょう。


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二人のお子さまに恵まれしばらくは穏やかな生活を送られました。


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しかしその後、寛仁親王が食道癌を患います。


皇族は健康保険に入れないため、治療費は莫大な金額になります。寛仁親王ご自身「治療費のために原稿も書くし講演もする」と仰っていました。


テレビや雑誌等メディアへの露出が多かったのもそのためでしょう。

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麻生家からの支援もあったと言われてはいますが、金額等については定かではありません。


男性皇族の留学費用は国から支出されますが、女性皇族の場合はお手元金でとなっておりますので、彬子女王の英国留学費用は麻生家が負担したのでは、と言われています。


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いずれにしろ、癌闘病中の寛仁親王を妃殿下の信子さまは懸命に支えます。


お料理本を出版するほど料理上手な信子さまは徹底した食事療法で寛仁親王を支えます。


その甲斐あって寛仁親王の体調はかなり回復します。


しかし闘病のストレスもあったのか、アルコール依存症であることを自ら公表します。


2006年にはアルコール依存症で入退院を繰り返しています。


その後はアルコール依存症に関する講演活動なども積極的に行っておられましたが、肺炎や咽頭癌など病魔に襲われます。


そしてこの頃から信子さまへのDVが話題となり、身心共に疲弊した信子さまと寛仁親王は、信子さまの療養という形で別居状態に入ります。


ししてお二人の仲は修復しないまま2012年、寛仁親王は薨去されます。


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お父さまっ子で「DVなどなかった」と主張する第一子の彬子女王と母である信子さまの確執はここから始まります。


危篤状態の寛仁親王を見舞った信子さまは病室に入ることも許されませんでした。


その後行われた葬儀では彬子女王が喪主を努め、信子さまは参列することもゆるされませんでした。


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妹の瑤子女王も同じ考えだったといわれており、信子さまはまさに孤立無援の状態でした。


そんな信子さまですが、しばらくして体調が回復した頃、療養先から東京に戻り公務を再開します。


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しかしこれに待ったをかけたのが彬子女王です。


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公務に戻るのであれば、祖父母の三笠宮同妃両殿下に謝罪してほしい、と雑誌に手記を寄せます。


この手記で、母子の確執は広く世間に知られるところとなりました。

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信子さまは宮邸に戻ることを禁じられ、弁護士同伴で荷物を運び出し、それ以降宮内庁長官の元公邸など、宮内庁管轄の庁舎内での生活をされています。



この後、三笠宮家の当主である三笠宮崇仁親王が薨去され、妃殿下の百合子さまが三笠宮家の当主となります。



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彬子女王は百合子さまとの関係を深め、百合子さまは三笠宮崇仁親王の伝記の編纂でも「彬子ちゃんが聞いてくれるからつい喋り過ぎちゃうのよ」と編集者に話すなど、お二人の絆は三笠宮崇仁親王薨去後、一段と強まります。



しかしこれは彬子女王が百合子さまという後ろ盾を得たことを意味し、信子さまの立場は更に弱まります。


彬子女王が信子さまの兄である麻生太郎氏に「父は母を臣籍降下(離婚)させるつもりでいました。麻生家で引き取ってください」と言ったことは有名です。


ここまで母子の仲がこじれた状態で、2024年11月、三笠宮崇仁親王妃百合子さまはその101歳の生涯に幕を閉じました。


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喪主は大方の予想通り、彬子女王が務めると発表されました。


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そして最近、彬子女王が三笠宮家の当主となることが正式に決まりました。


これからまだまだ彬子女王と母、信子さまの確執は続いていくでしょう。


お二人が笑顔で歩いていた時代が戻ることを多くの国民は願っていますが、その声はお二人に届いているでしょうか。



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日本を代表する大富豪の名門、麻生家のご令嬢として生まれ、望まれて皇室に嫁いだ信子さまの波乱の人生が今後少しでも穏やかなものになることを願ってやみません。

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オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ壮絶なる死別③⬇️



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揉めていた三笠宮家の当主問題にやっと決着がつき
ました。


故寛仁親王の長女、彬子女王が新たな当主となります。


本来であれば寛仁親王妃の信子さまが当主となるのが自然な流れですが、あれだけ母娘の間がこじれてしまっては難しいでしょう。


背景をご存知ない方のために三笠宮家関連の過去記事をまとめましたのでご参照ください。




































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今日、2025年7月19日は常陸宮妃殿下華子さま(以下、華子さま)の85歳のお誕生日です。

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皇室に入られてから60年以上経ちました。


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2024年9月30日には常陸宮正仁親王殿下(以下「常陸宮さま」)とのご結婚から60年を迎えました。


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一般にはダイヤモンド婚と言われますね。

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常陸宮さまは昭和天皇の第二皇子で上皇陛下の唯一の弟宮ですが、目立つことなく歴代天皇家を支え続けているので若い方はご存知ない方も多いようです。




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妃殿下の華子さまについてもあまり知られていないので、少しまとめてみようと思います。

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華子さまは1940年(昭和15年)7月19日、東京府東京市淀橋区(現:東京都新宿区下落合)の津軽伯爵邸にて華族・津軽義孝伯爵令嬢として誕生します。

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母の久子さんは毛利元雄子爵令嬢。姉に泰子さん、実枝子さん、明子さんがいます。

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戦時中のため休園していた女子学習院幼稚園には入園せず、1947年(昭和22年)に新制の学習院初等科に入学。1953年(昭和28年)、学習院女子中等科に入学し、1956年(昭和31年)、同高等科に入学。1961年(昭和36年)3月、学習院女子短期大学(当時)文科英語専攻を卒業されています。

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1961年(昭和35年)から正仁親王妃の選考が本格化します。皇后良子さま(当時)の「気心の知れた近間の人」という強い希望から、本人・実家に加え血縁上の問題が無いとなると、大変な難航を極めました。

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皇太子妃の美智子さまが民間出身だったことから、正仁親王妃は絶対に旧皇族、旧華族からという雰囲気が強くありました。

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華子さまも津軽家に男児がいなかったため婿を取るであろうと言う予測から、候補から外れていました。

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しかし1963年(昭和38年)、香淳皇后や常磐会(学習院女子中・高等科の同窓会)の強い希望から旧華族の華子が強く推薦され、正仁親王の学習院研究室にて初顔合わせが行われました。

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1964年(昭和39年)2月20日、伯父の徳川義寛侍従(元男爵)市谷邸でお見合いをします。父の津軽義孝氏は、徳川家の生まれですが、嫡男のなかった津軽家に養子に入っていたため、血縁としては華子さまは徳川家出身ということになります。


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この一度の見合いを経て、同年2月28日に皇室会議で満場一致で婚約内定します。

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2月22日に津軽家が縁談を受諾し同年4月14日に納采の儀を経て婚約が成立しました。

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美智子さまと同じく華子さまもお妃教育をお受けになります。

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華子さまの上品で初々しいお姿は国民の間でも大きな話題となりました。


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同9月30日に結婚の儀を行い、沿道には約5万人が集まり祝福しました。同日に常陸宮家が創設され渋谷区常磐松町(現:東)に常盤松御用地内の常陸宮邸へ転居します。

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ご結婚後も注目の的でした。

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伯爵家のご出身でありながら飾らない自然な笑顔に当時の国民は魅了されました。


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凛とした美しさの中に輝く品格をお持ちでしたが、決して皇太子妃の美智子さまより目立つことはなく、常に控えめでいらっしゃいました。


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常陸宮さまとの夫婦仲も大変良く、微笑ましいお姿を見せてくださっています。

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華子さまはその所作の美しさでもお若い頃から絶賛されています。


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1989年(平成元年)2月24日に、内閣の主催で行われた昭和天皇の大喪の礼では、欠席した皇太后(香淳皇后)の名代を務め、席次は天皇、皇后に続き皇太子さまより上位の第3位でした。

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現在は日本赤十字社名誉副総裁のほか、日本いけばな芸術協会、日本動物福祉協会、日本馬術連盟、日本・ラテンアメリカ婦人協会の名誉総裁職に就いています。


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2016年8月7日、同年7月16日に両側変形性股関節症の手術のため東京都世田谷区の日産厚生会玉川病院に入院していた華子さまは同日午後、退院したと発表されました。人工関節に入れ替える手術を無事に終え、院内でリハビリを続けていました。


園遊会では杖をついてお出ましになっていらっしゃいましたね。




気品あふれる皇族、と周囲からの信頼も厚い常陸宮さまと華子さま。お元気で長生きしていただきたいですね。

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上皇后陛下(以下「美智子さま」)が骨折され、手術入院されたのは記憶に新しいところです。

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美智子さまのように大々的に報道されることはありませんが、皇族方の高齢化で、骨折等で入院をされたり、車椅子や杖をお使いになる皇族方も増えております。



こちらはご生前の三笠宮崇仁親王殿下(昭和天皇の弟宮)です。

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このときは百合子妃殿下も歩行器をお使いでした。

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晩年は車椅子をお使いでした。


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今は亡き香淳皇后も昭和の時代から杖をお使いでした。

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美智子さまはいつも上皇陛下によりかかられていますね。

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肘掴みも有名です。


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常陸宮正仁親王殿下(上皇陛下の弟宮)も近年は車椅子をお使いです。

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常陸宮后華子妃殿下は近年、杖をお使いになることが多いですね。


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車椅子といえば、香淳皇后のこの車椅子姿が公開されたときは国民の間に衝撃が走りました。


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昭和天皇崩御後、周りにいるのは数人のお付きの方だけで外出もままならず、本当にお寂しいご様子でした。



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それはともかく、肘掴みは危険なので美智子さまも華子さまのように杖をお使いになったほうがいいですね。


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三笠宮家の長男で、寛仁親王家の当主だった故寛仁親王(妃は信子さま)は昔は女性天皇容認派でしたが、ある時を境に男系男子派に転向しました。





10年以上前ですが、「そこまで言って委員会」という関西中心の人気番組で明治天皇の玄孫(明治天皇の第六皇女の曾孫)として有名な竹田恒泰氏が自慢そうにこう言っていました。


僕が寛仁親王親王殿下にY染色体について説明したんですよ。それで殿下も男系男子でなければだめだと納得してくれたんです




Y染色体(英語: Y chromosome)は、性染色体の一つで、女性の性染色体はXXの組み合わせになりますが、男性はXYの組み合わせになります。


竹田氏の主張ではY染色体がなければ天皇の血は継承できないということですが、過去に女性天皇が複数存在することを考えれば、あまり意味のある議論とは言えません。


そもそもY染色体はあくまでも性染色体のひとつで、「天皇の血」を担保するものではありません。


ところが、寛仁親王はこの竹田氏の説明で男系男子派に転向したようです。


ただこれは竹田氏が自慢していることで、もちろん他の理由を根拠にということもありえます。


では、この竹田氏とはどんな人物なのでしょうか。


旧宮家の皇籍復帰を主張していることでも有名です




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明治天皇の玄孫(孫の孫)、竹田恒泰氏は10年以上前からテレビ等にも頻繁に出ているのでご存知の方も多いでしょう。

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時折、「皇族」「元皇族」「親王」と言われたりしますが、それは間違いです。



しかし旧皇族の竹田家(旧:竹田宮家)出身であることは間違いありません。

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竹田宮恒久王と昌子内親王(明治天皇の第6皇女、母は園祥子)の曾孫であり、男系では北朝第3代崇光天皇の19世となります。


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女系では明治天皇の玄孫で、今上天皇(徳仁)の三従兄弟にあたります。


日本オリンピック委員会 (JOC) 前会長の竹田恆和氏のご子息です。

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松濤幼稚園、慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾高校を経て、慶應義塾大学法学部法律学科で環境学を専攻して卒業されています。





父である恆和氏は、その父の恒徳王の第3男子として、皇籍離脱した約2週間後に出生しており、生涯で一度も皇族であったことはありません。


したがって、恆和氏も恒泰氏も皇族でも元皇族でもありません。「お祖父様が元皇族」ということです。

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父の恆和氏は3男であったので、竹田宮を嗣ぐ立場にはなく、戦後の皇室離脱がなくとも、規定では臣籍降下し侯爵となる立場でした。



つまり、数多くいる明治天皇の玄孫であることは間違いありませんが、「皇族」「元皇族」「親王」という肩書は正しくありません。


明治天皇の玄孫は今上陛下や秋篠宮殿下、黒田清子さんを含め現在39名いらっしゃると言われています。

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竹田宮家の直系ではないので、旧皇族の親睦会「菊栄会」の会合には参加されていないようですが、竹田恒泰氏が、明治天皇の玄孫の一人であることは間違いありません。


明治天皇は昭憲皇后との間にはお子さまに恵まれませんでしたが、典侍から5人の側室をもうけ、側室との間には5人の皇子と10人の皇女が生まれました。


しかし、このうちの10人の皇子・皇女は早世。 無事に成人した皇子は典侍「柳原愛子」(やなぎわらなるこ)が生んだ嘉仁親王(よしひとしんのう:のちの大正天皇)ただひとりでした。

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因みに、竹田恒泰氏の曾祖母にあたる昌子内親王と大正天皇の生母は異なりますので、竹田氏と大正天皇及び昭和天皇の間には直接の血の繋がりはありません。


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竹田氏は、男系男性天皇を支持する立場で女性天皇には否定的で時折過激な発言もあり、それも物議を醸しています。




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