エリザベス女王は厳格なことで知られていました。それは自国の王族や閣僚だけでなく、海外の国家元首に対しても同じでした。
公に中国使節を批判したこともありました。
そんなエリザベス女王や英王室と親しい関係を気づくことが出来なかった、と上皇上皇后両陛下が憂いていたという英国機密文書が公開され、一時話題となりました。
浩宮さま(今上陛下)のことは「実の息子のように思っている」と家族同様に接してくださったエリザベス女王が何故上皇上皇后両陛下とは「親密な関係を築かなかった」のでしょうか。
これはエリザベス女王が美智子さまに対して不快感をお持ちだったから、とも言われています。
そしてこれには「立場を弁えない者」を嫌うエリザベス女王の指向によるものと考えられます。
サッチャー前首相が、晩餐会で女王と衣装が被らないように問い合わせをした際、「臣下の服装に興味はない」と一蹴され、「鉄の女サッチャー」が震え上がったと言われています。
エリザベス女王が礼節を重んじることは、女王に謁見する際の各国元首や要人の写真からも推測できます。
例えばこれは昭和天皇の訪英時ですが、香淳皇后は皇后という立場でも、昭和天皇とエリザベス女王の間に入り込むことはなく、後ろに控えています。
フィリップ王配もエリザベス女王の斜め横に控えています。
常陸宮同妃両殿下の訪英時も同じく、華子さまは常陸宮さまがエリザベス女王と挨拶される間は後ろに控えています。
しかし美智子さまは違います。
この時にエリザベス女王はバッグを揺らして側近に何らかのサインを送ったと言われています。
エリザベス女王のバッグは側近へのサインに使われ、床に置く、持ちかえる、などでそれぞれ意味があるそうです。
この時にバッグを揺らしたのは美智子さまに対する不快感を側近に知らせるためだったとも言われています。
美智子さまも皇太子妃時代はエリザベス女王に対してカーテシーをして敬意を表していました。
それが皇后になると、まるでご自分が天皇と同格であるかのように振る舞う、その点をエリザベス女王は不快に思ったのかもしれません。
或いは、皇太子妃だった頃からクィーンマザー(エリザベス女王の母で皇太后)と一緒に上皇陛下(当時皇太子)の前を歩く美智子さまに違和感を感じていたのかもしれません。
「立場を弁えない者」を嫌うエリザベス女王の原点は王冠を捨てた伯父への複雑な思い
「本当だったらもっと生きられたはずなのに」これは大事な人を喪った後、誰もが考えることです。
そして、運命を変えてしまった人を恨むこともあります。
英国女王エリザベス2世も、父ジョージ6世が崩御し、自身が女王という重責を担う運命になったときに伯父を深く恨みました。
「伯父が身勝手な理由で王冠を捨てたために、父は激動の時代の中で寿命を縮めた」
エリザベス女王の中にはそんな強い思いがあったようです。
英国の故エリザベス女王(エリザベス2世)の父、ジョージ6世は、映画「英国王のスピーチ」でも知られています。
1895年12月14日に、後のイギリス国王ジョージ5世と王妃メアリーとの第2王子として誕生しましたが、皇太子として育てられた長兄エドワードの陰に隠れた存在であり、王位を継承することを期待されていませんでした。
第一次世界大戦中は海軍、空軍の士官として従軍します。第一次世界大戦後には、通常通りにイギリス王室の一員としての公務を果たしています。
1923年に、第14代ストラスモア伯爵クロード・ボーズ=ライアンの四女エリザベスと結婚し、2人の王女(長女のエリザベスと次女のマーガレット)をもうけました。
1936年1月20日に父王ジョージ5世が崩御し、長兄エドワード王太子が「エドワード8世」として即位します。
しかしながら、即位間もないエドワード8世は、皇太子時代から交際のあった離婚歴のあるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚を望み、議会との対立を深めていきます。
当時の首相スタンリー・ボールドウィンは、「政治的、宗教的理由から、国王に在位したままでのウォリス・シンプソンとの結婚は不可能である」と、エドワード8世に勧告し、最終的にエドワード8世は「イギリス国王からの退位」を決めます。
1936年12月11日に弟のジョージが「国王ジョージ6世(King George VI)」として即位しました。
ジョージ6世は吃音を患っており、国王即位にあたってそのことは大きなストレスとなりました。吃音を克服しようとする姿は映画「英国王のスピーチ」に克明に描かれています。
即位が正式に決まった際には、ルイス・マウントバッテンに対して「これは酷いよ。私は何の準備も、何の勉強もしてこなかった。子供の頃から国王になるように教育を受けていたのはデイヴィッド(エドワード8世)の方なんだから。国事に関する書類なんかこれまで一度も見たことなんか無いんだよ。そもそも、私は一介の海軍士官に過ぎないんだ。海軍将校としての仕事以外は、これまで何もやったことの無い人間なんだよ」と愚痴をこぼしたと言います。
兄が退位する前日には、母メアリーのもとを訪れており、その日の日記に「ひどいことが起こってしまいましたと母に告げ、私は取り乱して子供のように泣き崩れた」と記しています。
王位を押し付けられたジョージ6世の治世は、イギリスの国力と地位が相対的に低下し、アジア及びアフリカにおける自国領植民地の独立による大英帝国の解体が進展するとともに、同盟国であるアメリカ合衆国とソビエト連邦と複雑な関係を抱えながら2度目の世界大戦(第二次世界大戦)を経験するという困難な時代でした。
1939年にはポーランド問題をめぐってドイツと対立し、イギリスおよびイギリス連邦(アイルランドを除く)は、連合国側として第二次世界大戦に参戦し、枢軸国側だったイタリアや日本などと敵対し欧州のみならずアフリカやアジアにおいて世界各地で戦うことになります。
ジョージ6世は首相ウィンストン・チャーチルと強く連携し、5年間に及ぶ戦争期間中、国民の士気を支え続けました。第二次世界大戦で連合国側が完全勝利を収めましたが、その後に成立したのは冷戦と呼ばれる困難な時代でした。
終戦後の1952年1月31日、周囲の反対を押し切ってジョージ6世は、ロンドン・ヒースロー空港まで足を運び、イギリス帝国領のケニア植民地経由でオーストラリアとニュージーランド両国への海外公務に旅立つエリザベス王女(後のエリザベス2世)の送迎をしています。
これが父娘の最後の対面であり、ジョージ6世の長女エリザベスが「エリザベス王女(Princess Elizabeth)」として最後にイギリス本国に存在した瞬間でもありました。
1952年2月6日朝、サンドリンガム・ハウスのベッドで死亡したジョージ6世が発見されます。
死因は就寝中の冠動脈血栓症で、この時ジョージ6世は56歳でした。
突然の父ジョージ6世の訃報、すなわち自身のイギリス新女王への即位を滞在中のケニアで知らされたエリザベス王女は、「女王エリザベス2世(Queen Elizabeth II)」として即位するために、夫フィリップとともにイギリス本国へ急遽帰国します。
もともと病弱であったジョージ6世は第二次世界大戦の心労で命を縮めたと英国民の誰もが思った通り、エリザベス女王もまた同じ思いをいだき、それは身勝手な理由で簡単に王冠を捨てた伯父エドワード8世を恨む気持ちとなっていきました。
エリザベス女王の厳しさは、自身の運命を翻弄した伯父の「立場を弁えない」行為が大きく影響しているのでしょう。
田舎暮らしを夢見たプリンセスは英国女王として重責を担うことになり、その分自分にも他人にも厳しくなったのかもしれません。